大分)先輩の偉業感じる「証拠」 高田に残る甲子園の土 野球部員は減少傾向でかつてのような隆盛もない

「俺たちが高校生の時は甲子園にいっちょるぞ」。高田(大分県豊後高田市玉津)の主将光門颯君(3年)は、同校のOBでもある祖父の友治さん(72)から何度も聞かされてきた。「甲子園か……」。その度に思い浮かべるのは、グラウンドのプレハブにある小さなポリ袋。中には黒土と「甲子園の土」と書かれた紙切れが入っている。

 同校は1961年夏、甲子園に初出場を果たす。予選の中九州大会優勝の立役者は、後に中日ドラゴンズに入団して1年目から10勝をあげる活躍をしたエース門岡信行さん(74)だった。選手たちは優勝旗を持って地元に凱旋(がいせん)。その姿を一目見ようと、当時の宇佐参宮線豊後高田駅には市民が押し寄せた。

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 熱烈ぶりは地元にとどまらなかった。チームが甲子園に乗り込んだ時のことを、補助員としてチームに同行した藤本重信さん(73)は、昨日のことのように思い出せる。

 選手たちは、出迎えた現地県人会の人たちのもてなしを受けた。「敵に勝つ」と目の前に出てきたのは、豪華なビフテキとトンカツ。「食べ物が今のようにはない時代。そんなものを食べさせてもらえる『甲子園』ちゅうところは、すごいんだなと思った」

 チームは1回戦で高知商に敗退。負けた学校の多くの選手たちがするように、選手たちは甲子園の土をスパイク袋に詰めて持ち帰った。たった一度の甲子園出場の「証拠」でもあり、今も残る「甲子園の土」は、こうして半世紀以上に渡って受け継がれてきた、はずだった。だが、門岡さんと藤本さんは「持ち帰った土は学校のグラウンドにまいたはず」といぶかる。

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 30〜50代の野球部OBたちも「現役のころは見たことがない」と口をそろえる。もし、甲子園に出場した時のものでなければ、一体いつのものなのか。

 考えられるのは、2000年に日本高野連から送られてきたものということだ。この年、多くの学校に甲子園をより身近に感じてもらおうと、甲子園球場の外壁を覆うツタの苗と、グラウンドの土が全国の加盟校に配られたからだ。だが、それも判然としない。

 甲子園出場時に持ち帰った土がどのように受け継がれたのか。あるいは受け継がれなかったのか。経緯ははっきりしない。だが、袋の中の土は、先輩たちが出場した甲子園を感じとることができる唯一のものであることに変わりはない。

 高田の野球部員は減少傾向にある。甲子園出場は遠い過去となり、かつてのような隆盛もない。危機感を持つ光門君が口にするのは、やはり甲子園。「絶対に甲子園の土を踏みたい。出場して1勝して、野球部の歴史を塗り替えたい」

 目標は、負けた時の象徴のような「甲子園の土を持ち帰る」ことではもちろんない。その上に立ち、プレーすること。そんな思いで練習する選手たちを、プレハブに掲げられた土が今日も見守っている。(小林圭)

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